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12/4 不愉快

わたしがここで書き続けている内容は、結構不愉快な内容であるはずだ。
なぜなら、これを読んだ時のその読んでいる者は、
誰ものの自我であり、自我の暴露、自我の否定、自我の終わりに関する内容であるから。
自我にとってみればそれは、自分の存在がなくなる、言わば、死んでしまう、ことであり、
何となくな恐怖や嫌悪、不愉快を感じるに違いない。
しかし、それでも敢えて書く必要がある。
それは、わたしや不愉快を感じるあなたでさえの本性の叫びであるため。
不愉快なあなたの内に隠されたあなたの命でわたしは書く、という表現を使っても誤りでもない。



自分自身を知ることを、探求、
自分自身を知ろうとする者を、探求者、
自分自身知ったことを、悟りと呼ぶべきである。

探求や探求者や悟りという言葉の指すイメージや定義や解釈が例えこれではないとしても又は、ないとするなら、
尚の事、イメージや定義や解釈をこれに矯正するべきである。
というのは、
それらではない何かの神秘体験、超越体験のようなイメージや定義や解釈が世界での認識であり得ることは大いにあり得、
そもそも世界とは自我によって認知されているため、自我による価値、解釈が幅を利かせるから。


愛とは何か?
自由とは何か?
安らぎとは何か?
悟りとは何か?
神とは何か?
無二とは何か?
それらに疑問を持ち、その疑問を出発点とするなら、探す、知ろうとすることは迷路に入り込むと同じである。
スピリチュアルの罠にはまる。
それは遠回り、道草。
疑問は自我の常套手段だ。
それらを出発点にしてはならない。
この方法はイメージを、想念を、確立するだけに終わるだろう。
結果、それはまたもや概念である。

自分自身を知ること。
自分自身への興味。
問いはたった一つ。
わたしとは一体なんのことか?
若しくはこの類似語。
わたしは誰か?

通常質問好きである自我であっても、この質問、疑問は抱かない。
その答えは自我の死であるからだ。
自我が自分の死に賛成などはしないのだ。

この探求の結果、
この探求による副産物が、
真実の知識であり、愛であり、自由でありその他のことであり。
この自身探求が直接的方法、一本道である。

わたしとは何のことか?
この問いで始まれば、この問いが終わるそれ、は全てが終わる。

恐らくは誰もが、
自我を持ち合わせる幼少期に一度は、浮かんだであろうこの疑問。
日常生活を送るに従い、成長するに従い、埋没してはいないだろうか?
わたしは幼少期、保育園に通っていた。
当時にこの疑問が浮かんだことをはっきり覚えている。
砂場にその絵をかいて、日射病で頭がクラクラくし倒れそうになったこともあって記憶が強い。

生まれて数年目での人生初の最初のその疑問は、人生で最重要且つ、最大価値、最終の疑問だったと今に知る。


人は自分自身とは何か?について、
真実の観点からは誤り、錯覚、誤解ではありながらも、
身体や人格として、一応定義は図られており、解決、答えを出しているために、
通常この疑問を抱くことはなく。

臨死体験や気絶、昏睡状態、このような強制的とも言える、自身消失に繋がる衝撃体験で稀に、
自分自身とは何か?この疑問を真剣に考えたりする機会になったりするが。
それでも多くはなく。

自分自身とは何かについての問題は一応片付いているため、
次の、この自分とする者が幸せになるために、
何を得たら良いか?
どんなことをしたら良いか?
どんな生き方をすれば良いか?
に意識の焦点は向いていて、求めることをしている。

求めては見つけ、見つけては一変の不幸を感じ、次を求め、また見つけては・・・繰り返し。
それは果てがなくどこまでも永遠だ。
願望に小さいも大きいもなく。
果てのないそれ、を実感するのは、
ある一つのことを建設的段階で願望決め達成し追い越して、また次の願望決め達成し・・・を幾度も繰り返すことで、
比較的に容易に悟る。
求めるものの物質や種類を変えたところで、またそれも果てがないと自然と思う。

物質や現象、それで得られる感情に焦点を絞る限り何ものにも完全なる幸せはなく。
いったい、それを求めている、わたしとは何か?
と自分自身に意識を向けるまで永遠に続く。


人は苦に麻痺している。
苦とは苦しいという感情ばかりを指すものではない。
麻痺して気づかないが実際は、
心を動かすの力を必要とし苦を伴い、
願望を抱く、想念を沸かせるのも力を必要とし苦を伴い、
意識を向けることも同様、
努力すること、もがくことは明らかな苦である。

幸せが好きなのに、
幸せでいたいのに、
幸せになりたいのに、
幸せを求めてる筈なのに、
苦を伴うということが、いかに理不尽なことか。
苦を伴う快楽、という言葉はこれを指す。

しかしながら、人が自身の定義を身体や人格とした出発点からはこれは避けれない運命である。
人生の途中から、定義をただすことは本命でありながらも、
最初、生まれた誰もがこの運命を背負っていて、これから外れることはない。
「生まれた」という事実が、誤った定義を持っているその証拠である。
そもそもこの定義をもってない魂、真我である者は生まれはしない。

従って生まれた誰もが苦をする運命。
努力は苦である。
活動の全ては苦である。
しかし同時に、誰もが幸せにならなければいけない運命。
それ故、苦は最小に抑えながら、幸せを叶えるが最も望ましい。

生まれた以上、どうしてもなさなければいけない苦、努力を、
幸せの直接的方法、その一本道「自身を知る」ことに注ぐことは、
とても理にかなったことである。

それは純粋な利欲であり英知である。

わたしとは一体なんなのか?
わたしは誰か?

わたしではないものを一つ一つ確認し、捨てること消すこと。
人はそこに努力するべきである。


自分自身について。
結局、
「意識があるという自覚」、「わたしがいる」という自覚は、
「わたしは既に実現されている」ということである。
新たな「わたし」というものをどこから見つけてきてもってくるわけではない。
探すことをする訳でもない。
もう「既にある」わけのだから。
故に、
見つける、探すのではなく、
誤った定義を捨て去れば、残ったものが「わたし」である。

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